熱を求める
父の遺体が寝かされていた部屋の前で、笹野誠一郎(ささのせいいちろう)は足を止めた。
最後の弔問客を見送り、疲れ切った体を引きずるようにして、ここまで戻ってきた。空っぽになった部屋を見てしまうと、動く気にもなれなかった。
悲しみよりも疲労が色濃い。
誠一郎と父は仲が悪いというわけでもなかったが、それでも忙しさにかまけて帰省は数年に一度という頻度になっていた。そもそも故郷にさほど思い入れがあるわけでもない。
父が生前から自らの葬儀について色々と手を回してくれていた。そのおかげで誠一郎は楽ができた。親の葬儀で楽も何もないだろうが、彼としては本当にありがたいことであった。
しかし、諸々のことを取り仕切るのは喪主である誠一郎の仕事であり、悲しむ暇もなかった。そのはずなのだが、本当にそうなのだろうかと、誠一郎自身が自分を疑っている。
親が死んで嬉しいはずがない。それは本当のことだ。けれど、まるで赤の他人の葬儀を仕切ったような、そんな虚無感と疲労感ばかりが胸の内に積もっていく。
「大丈夫?」
不意に声をかけられ、誠一郎は文字通り飛び上がってしまった。
振り返れば、声をかけた女性も目を丸くしていた。
跳ね上がった心拍を落ち着け、誠一郎は居住まいを正して答えた。
「……大丈夫です」
「よかった」
女性は小さく笑った。
優しげに下がった目尻に疲労が見て取れる。彼女は葬儀の手伝いで色々と骨を折ってくれた。すでに深夜近くであることを考えても、相当疲れているはずだ。
「あの、本当にありがどうございました。もう時間も遅いですし、送っていきます」
「隣だし、大丈夫」
隣と彼女は簡単に言うが、その隣は100メートル以上離れていて田舎なので街灯の一つもない。そんな道を一人で歩かせるのはさすがに彼も気が引けた。
「さすがに危ないですよ。なにかあったら、ご家族にもご迷惑をかけることになりますし」
「それも大丈夫」
女性は苦笑しながら続ける。
「私は一人きりだから」
「それは、その。すみません」
「謝らないで。あなただって」
女性の視線が動く。つられて誠一郎も視線を動かす。視線の先にある遺影の中で、故人が穏やかに微笑んでいた。
「あなたのお父さんには、色々とお世話になっていたの」
「お世話、ですか?」
「そう、ここを出る時も。戻ってきたときも」
二人でじっと遺影を見つめる。
「……本当に何も憶えてないのね」
「なにをですか?」
「わたしのこと」
「えっ」
そう言われて、誠一郎はまじまじと女性を見つめる。
優し気に下がった目尻とすっきりとした鼻梁。少し薄い唇とシャープな印象の輪郭。艶やかな黒髪はアップにまとめていて、うなじに色香を感じてしまう。
清楚に見える美人だ。しかし、誠一郎には見覚えがない。
高校受験で他県に進学し、大学も他県だった。就職も東京でしており、故郷での交流は絶えて久しい。
どこで出会ったのか見当もつかない。三十代半ばとなり、それなりに女性遍歴はあるが記憶をさらってみても思い出せない。
「隣に住んでて、小学校まで一緒に毎日通ってたのにね」
「そんなの……」
早々に回答を得られたが、小学生のときの知り合いなど、大人になった姿だけ見せられても分かるわけがない。
「わたしはすぐに分かったわよ。三重島貴子(みえしまたかこ)。まだ思い出せない?」
「そうですか」
笑う貴子に対してどことなく釈然としないまま、誠一郎は返事をした。
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