眠り姫に聞こえないように
大学生の藤一郎(とういちろう)は、ある日の早朝に高校時代から友人である絹代(きぬよ)に素っ気ないメールで自宅まで呼びつけられ、淡々と彼女とセックスをすることになる。行き先のない肉体関係という縁に縋る不透明な恋慕の物語。
スマホの振動で藤一郎(とういちろう)は目覚めた。室内には夜の名残のような薄闇が蟠っている。
ベッドから抜け出し、寝惚け眼でテーブルへ向かう。テーブルの上にはノートパソコンとスマホ、飲みかけのお茶が入ったペットボトルが置かれていた。
藤一郎は欠伸をしながらスマホを取り上げる。
――今すぐ会いたい。
たったそれだけのメッセージがメールで送られていた。
藤一郎はスマホを再びテーブルの上に戻し、充電用のケーブルを接続する。それから大きく伸びをして、彼は風呂場へと向かう。どうしても妥協できない点として、彼は風呂とトイレは別にしている。
シャワーを浴び、着替え、身だしなみを整えた。上着のポケットに自転車の鍵があることを確認してから、藤一郎は部屋を出る。
塗装の剥げた鉄の外階段を降り、友人から譲ってもらった自転車に跨って走り出す。
朝方の町には微かに靄がかかっており、遠くから走り出したばかりの電車の音が響いてくる。まだ人々の活動が本格化する前の微睡む町は、真昼や夜の喧騒が遠い過去のようだ。
自分が眠っている間に人類が絶滅して、機械だけが自動的に活動を再開した町を思い浮かべる。藤一郎は、それはとても静かで美しい光景のような気がした。
町の中央から隣の町へと貫く鉄道の高架下を通り抜け、彼は町の境目辺りを目指す。
そこは、ここ十年以内に再開発された地区で、真新しいラッピングを剥がされたばかりの建物が多い。新品の匂いが漂ってきそうな大きなビルの脇を抜け、管理の行き届いた公園へ自転車で乗り入れる。
公園を突っ切ると背の高いマンションが聳え立っていた。
藤一郎はマンションの駐輪場に当たり前のような顔をして自転車を停める。そして、マンションのエントランスに入り、鍵を差し込み、番号を入力した。自動ドアが音もなく開いて、彼を内部へと迎え入れる。
地上三十階のマンションの中は、空調の音が微かに聞こえるだけだ。
人が詰め込まれている大きな巣箱のような建物だというのに、マンションの中には人の気配が薄い。
エレベーターの呼び出しボタンを押すと、殆ど待たずに扉が開く。
それで誰かが地上まで下りてきたのだと知れた。
エレベーターの箱に乗り込み、目的の階数のボタンを押す。藤一郎は壁に寄りかかって目を閉じる。胃袋がせり上がるような浮遊感に堪え、電子音が到着を告げるのを待った。
ぽーん、と軽い音が鳴って、藤一郎の前にあった扉が開く。
マンションの廊下は柔らかな照明が満ちていて、SF映画の一場面のように無機質だ。
エレベーターの箱から出て、藤一郎はそんな廊下を歩いていく。押し殺した足音はいつも反響しない。吸音施工でもしているのだろうか。
廊下の一番奥にある角部屋の前に辿り着いた藤一郎は、エントランスで使った鍵を鍵穴に差し込む。その鍵は彼のアパートのものと違い、幾つかの穴が開いている。ディンプルキーという代物だと知ったのは、初めてこの部屋に来た時だった。
良い話だ……心があったまる
もちち さん 2023年3月11日