悲劇のヒロインはどこにもいない
同じ屋根の下に暮らす伊織(いおり)と馨(かおる)。再婚した連れ子同士の姉弟である二人は一線を越えた関係になっていた。伊織には不安も不満もないが、馨はそうではないようで……。
フローリングに座り込み、伊織(いおり)は図鑑を読んでいた。そこには色彩豊かな鳥達が行儀よく並んでいる。
充電式のランプを傍に置いているため、彼の周囲はオレンジ色に明るい。しかし、その灯りの届かない場所は薄暗く、図鑑に記された南国の明るい景色とは正反対だ。
備え付けの天井に届く大きな書棚、木製の重たげなデスク。カーテンの引かれた窓。そういったものは黄昏時の暗さにゆっくりと溶けていく。
不意に鍵が開く音がする。それはささやかな音であった。それでも静けさが堆積しているこの部屋で、伊織の意識を現実に引き戻すには十分なものだった。
扉が開き、白々とした明かりが入り込んでくる。次いで部屋全体を照明が詳らかにした。
「暖房ぐらいつけなさいよ」
棘のある声で闖入者が伊織に言う。堆積していた静けさを蹴立てるような足取りで部屋の中に入ってくる。そして、扉が閉まり、再び錠を下ろす音がした。
そこでやっと伊織は図鑑から顔を上げる。彼が視線を向けた先にいたのは、一人の少女だ。勝気そうな面差しが彼女を不相応に大人びた外見にしている。
「あと、暗いと目が悪くなる」
「何かとマウント取りたがるのは子どもな証拠だよな」
「は?」
つかつかと彼女は伊織に歩み寄ると、彼の髪を掴み顔を強引に上げた。
「誰が、何だって?」
「機嫌悪いな。馨(かおる)、なんかあった?」
「質問してんのは、あたしだ、クソ眼鏡」
馨は伊織の眼鏡を指先で弾く。かちん、と硬い音がして彼の鼻先から眼鏡がずり落ちていった。それだけのことで伊織の視界は霧が立ち込めたように曖昧になる。こんな視界も彼は少しばかり気に入っていたが、別のことが気になった。
「指、痛くないの?」
伊織の声を食らうように馨は唇を触れ合わせる。だが、キスなどという甘いものでもなく、彼女は伊織の舌を噛み、唇も裂けるほど強く噛みついた。
「……本当に機嫌悪いな。どうした?」
唇の痛みを受け入れ、伊織は問いかける。間近にある馨の顔だけが、はっきりと像を結んでいた。しかし、彼女は何を言うでもなく、伊織から離れて行ってしまう。
眼鏡を拾い、かけ直すと縁取られた世界が輪郭を取り戻す。
馨はデスクに座り、伊織を見下ろしていた。冷たい目でじっと彼を観察している。
「あのさ、言わなきゃ分かんないだよ」
溜息交じりに伊織が言うと、舌打ちして馨は顔を背けた。それから忌々し気に口を開いた。
「書斎、使うのやめない?」
「なんで?」
「お父さんが死んだ場所じゃん」
「正確にはここで死んだわけじゃない。病院で――」
「屁理屈はいい」
「事実だろ」
「あんた、嫌じゃないの? 自分の父親が死んだ場所なんてさ」
「じゃあ、馨は病院に行けないな」
伊織が鼻を鳴らすと、馨は暗い顔になる。ポーカーフェイスに憧れているけれど、彼女は直情型ですぐ顔に出るのだと伊織は知っていた。そんな彼女に暗い顔をさせるものは何だろうか。
「なんか、ヤなことでもあった?」
重ねて彼が問えば、いつもの馨は渋々答えてくれるのだが、今回は口が重い。伊織は立ち上がると、図鑑とランプをその場に残し、馨の隣に座る。
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