不出来な器 (Page 6)
一人きりになって、竹彦は息をつく。そして、また町へと目を向けた。変わらないようでいて、確実に町は変化している。そして、そこに住む人間も。自分だけが取り残されてしまったように竹彦は変われずにいた。
何もかも中途半端で、どうしようもない。
そんなことを諦念と共に竹彦が考えていると、紗智と作務衣の女性が再び姿を現した。和やかな雰囲気で、どうやら商談はまとまったらしいと察せられる。これで仕事はもう終わりだ、と竹彦は思っていた。
だが、終わりではなかった。
どうやったのか、紗智は竹彦の両親を懐柔し、開業に向けた準備を手伝わせることを約束させてしまったのである。寝耳に水とはまさにこのこと。しかもホテル暮らしだと言っていたが、早々に引き上げて竹彦の家で居候を始めたのだ。もっとも居候の件に関しては竹彦の両親の提案だったらしい。
それら一連の出来事に揉まれているうちに竹彦の時間は急に速度を増し、目まぐるしく展開していく。文字通り目が回るようなスピードで、彼にとってそんな体験は滅多にないことだった。泥の中にいるように重たく遅々とした時間は、日めくりカレンダーを破るよりも簡単に経過していったのである。
ふと我に返ると、開店まで一週間となっていた。
その準備に費やした労力を思えばあっけないほどだ。
内装の工事も終わり、客を迎えるだけとなった店内に竹彦と紗智はいた。ブラインドを下ろし、照明を絞っているいるため外からは店内の様子は分からない。
薄暗い店内の落ち着いた雰囲気と疲れから、竹彦はカウンターでうとうとしていた。椅子の背に体を預け、うつらうつらしていると肩を揺すられる。
「竹彦」
呼びかけられて目を開けると、エプロンをした紗智がマグカップを差し出した。
寝ぼけ眼で竹彦はマグカップを受け取る。
「気をつけてよ」
「ああ」
生返事を返し、竹彦はマグカップに口をつけた。カフェオレだった。適度な苦みと甘みが疲れた体にはありがたい。だが、マグカップがどうにも持ちにくい。把手がきれいなアール状になっていないし、カップのサイズに対して大きすぎるためバランスが悪いのだ。それだけでなく、全体的に歪で縁の口当たりも悪い。とても客に出せるシロモノではなかった。
「おい、これ。不良品か?」
「味?」
「カップに決まってるだろ」
「それのこと言ってるの?」
紗智は面白そうに竹彦に言った。からかうように自分は形の良いマグカップを口に運ぶ。それからゆっくりとコーヒーを味わう。憮然としている竹彦に、堪えきれないといった様子で彼女は声を上げて笑い出した。
「それ、あんたが作ったのよ」
ぎょっとして竹彦は自分が手にしているマグカップをまじまじと観察する。こんなものを作っただろうか。しかも人に渡しているとは。
「私が引っ越す日に、あんたがくれたのよ」
そっと紗智はマグカップに触れた。その手付きがあまりにも慈しみに満ちたものだったので、竹彦は動けなくなってしまった。
「父さんが店をたたんで、私たちは逃げるみたいに引っ越すことになったけど。あんた、言ったのよ」
マグカップから彼女の視線が真っすぐに竹彦へ向けられる。逃げられない鋭さだった。
「門出だろ。笑えよって」
「……馬鹿にされたと、思ったか?」
「全然」
紗智の視線が和らぎ、瞳が揺れる。
「この引っ越しは門出なんだって、あんたが言ったから私もそれを信じた」
「そんな良いもんじゃなかったろ」
「うん」
マグカップから紗智の手が離れ、竹彦の手を包む。
「良いものじゃなかったから、あんたの言葉とこの不細工なカップが私を助けてくれたのよ」
「そんなこと知らなかったし、お前に言われるまで、俺は全部忘れてた。その程度のことなんだよ」
「あんたにとってはね。だけど、私には大切なこと」
言うべき言葉が見つからず竹彦は黙り込む。そんな彼の内心など知らず、紗智は話を続けた。
「あんたにとって大切なことってなに? それも忘れた?」
目を逸らし、竹彦は紗智とマグカップから手を離した。置き去りにされた不格好なマグカップは意外にも自立する。不格好で、歪ながらも誰の手も借りずに。
その様を見ていると竹彦は自嘲が口の端を歪めるのを止められない。それに引き換え、自分はどうだ。家業を継ぐことすらせず、かといって紗智のように自らの行き先を決めるでもない。
良い話でした。本番シーンに至るまでのストーリーがしっかり描かれていて、話の世界に入り込めました。じわじわ高まっていく二人の感情がリアルに伝わってきて最高です。
まるまる さん 2020年8月4日