心変わり声変わり
森崎鈴は駅で男に声をかけられる。その男、的場光明は鈴の声が理想の声なので録音させてほしいと頼んできた。簡単なセリフを録音しただけでお金を渡されて、夫に不満を持っていた鈴は再び的場と会う。そして、セリフを言っているうちに興奮してきて……。
「さようなら」
電車のドアがもうすぐ閉まる。森崎鈴は夫の背中に向けて言った。
鈴は共働きの平凡な主婦だった。結婚して三年、まだ子供は作っていない。夫の忘れ物を届けに来て、今日はお弁当を作るのは面倒だからコンビニに寄ろうかと考えていた。
「あのっ」
「はい?」
突然、スーツの男に声をかけられて、鈴は警戒して一歩下がった。
「あなたの声を録音させてもらえませんか」
「え?」
「あなたの声、俺の理想なんです。お願いします」
「え、ちょっと……」
「あ……すみません、いきなり。俺、こういう者です」
男が名刺を取り出して、鈴に渡した。
的場光明、製薬会社勤務。身元はしっかりしていそうだった。
「あの……駄目でしょうか……」
しょんぼりしている様子は悪い人に見えなかった。
仕事が始まるまで時間があるのと好奇心で、鈴は頷いた。
「とりあえず、お話を聞かせてもらえますか?」
駅近くのカフェに入り、向かい合わせに座った。
「俺、声フェチなんです」
「……はあ」
「好きな声優は何人かいるんですが、心から求める声にはまだ出会えてなくて。いつか理想の声に出会えるんじゃないかといつも耳をそばだてていました。会社にはいなかったので、通勤電車や街で探していました。でも今日、見つけたんです。それがあなたです。俺の理想なんです」
理想と言われて悪い気はしなかった。
「ハスキー気味で、でも澄んだ印象を与える声。深さのある、とてもいい声だと思います」
「……ありがとう」
「失礼ですが、お名前は……」
「森崎鈴です」
「鈴さん! 声の印象にぴったりな名前ですね。名は体を表すって本当ですね」
「そう?」
「はい。それで……録音させてもらえないでしょうか」
「録音って言われても……」
「もちろん、お金は払います。目覚まし代わりに聞きたいので、『時間よ、起きて』って言ってもらえませんか」
「それでいいの?」
卑猥なセリフを言わされるのではと思っていた鈴は肩の力を抜いた。
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