見知らぬ自分と妻 (Page 10)

「妖怪っていうのも不便な連中でしてね。人間に引っ張られてしまう。だから、奥さんの願望に則って、ぬらりひょんはあなたに擬態した。アレは奥さんのあなたともっと触れ合いたい、愛し合いたいという欲求に振り回されてるんですよ」
 あはは、と田幡は口を大きく開けて笑い出した。
「だから、あなた達夫婦に必要なのは加持祈祷なんかじゃない」
 ぴたりと笑いを収めて田幡は真顔になり、楠田の鼻先へ指を突き付ける。
「顔を突き合わせて、二人で話をするだけでいい。それができないのなら、ぬらりひょんはいつまでも二人の隙間に居ついているでしょうね」

 狐に抓まれたような心地で、その日は田幡の家を楠田は辞去した。

 言われた通りに楠田は、ほんの少しだけ意識して妻と話をしてみる。そして、ナニカに抱かれた妻を八つ当たり気味ではあったが、激しく求めた。

 たったそれだけのことで違和感は消え去ってしまう。
 拝み屋への謝礼の支払いを逃げてしまおうか。一瞬だけそんな考えが頭をよぎる。しかし、妙な座りの悪さに尻を叩かれ、約束通り謝礼を支払うことにした。

 それ以来、楠田は田幡が住むマンションへ近づくことはなかった。

*****

 マンションの一室でインターホンが鳴った。

 スピーカーが古いせいか、少しばかりその音は割れている。
「やあ、ご苦労様」
 田幡はマンションのドアを開け、破顔して来訪者を迎え入れた。

「今度の家はどうだった?」
「悪くなかった。ただ、奥方が少々な」
「随分と絞られていたねぇ」
 くすくすと笑う田幡へ来訪者は皮肉げに顔を歪める。
「人間の欲とは恐ろしいものだ」

「良いことじゃないか。私も、お前たち妖怪も、人間の欲のおかげで食い繋げている」
 ふん、と鼻を鳴らし、来訪者は室内を横切ってソファへと腰を下ろした。
「妖怪をけしかける拝み屋など、悪辣の極みだ」
 ソファに座ったまま来訪者は体を前に傾け、眉根に皴を寄せて田幡を睨む。

「ふふっ、いやはや。本当に似ているねぇ。楠田にそっくりだ」
 失笑を禁じ得ない。そんな風情で田幡は来訪者を揶揄する。

 来訪者は楠田と瓜二つの顔を、楠田そっくりに歪ませ、舌打ちをした。そして、自らの面をひと撫でする。すると夕闇が風景の輪郭を溶かすように来訪者の印象が曖昧になった。
 今しがた座っていた人物は紛れもなく楠田と同一の姿と仕草をしていたのだ。それが霞の向こう側にいる人物のように、印象が曖昧模糊として判別がつかなくなる。

 どこにでもいるようで、どこにも見当たらない。人の形をした煙のような定まらない不可思議な人物像。
 瞬き程の時間もなく、来訪者は誰でもなくなってしまう。

「さぁて、お次はどこの誰をカモにしてやろうか」
 美貌の拝み屋は悪びれもせず言い放つ。
 その言葉を聞き、ぬらりひょんは観念したように首を振るしかないのだった。

(了)

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