見知らぬ自分と妻 (Page 2)

 落ち着くためか、それとも妻に縋るような心地だったのか。自らの内心すら判然とせぬまま、楠田はハンカチを握り締めて語り出す。
「最初は本当に小さな違和感でした。なんだか物が多い気がする。少し部屋が狭い気がする。少しだけ、気のせい。そんなふうに自分に言い聞かせていたんです」
 だけど、と楠田は両手で顔を覆う。
「ある時、気付いたんです。出勤するために、いつものように電車に乗って吊革に掴まった時に。朝食が三人分あったって」

「……お子さんの分では?」
「うちには子供はいません。夫婦二人暮らしです」
 震える声で答え、楠田は目を閉ざした。
「僕が、イかれてしまったのなら、それでいいんです。だけど、妻まで――眞弓(まゆみ)まで、どうにかなっていたら」

「それからどうしました?」
「帰るのが怖くなって、その日は遅くまで飲んで帰りました。帰ったら、妻はもう寝ていて。だけど、どうしてもシャワーだけは浴びたくて風呂に入ったんです。そうしたら、誰かがパッと廊下の明かりを点けてくれて……、驚いたんです。そうしたらナニカが危ないよって言ったんです」

「まるで怪談ですね」
「怪談……。そうですね。それなら、幽霊でも出てくれた方がずっと良かった」
 唇を噛み締め、楠田は震える声をどうにか整えようと苦心する。だが、声だけでなく、体まで彼は震えており、あまり効果はなかった。
 そんな彼の背を暖かい手がそっと撫ぜる。
 柔らかい感触。細い指の感触が皮膚の上を緩く降りていく。
 顔を覆っていた楠田の手が解け、その隙間から見えたのは床に片膝を突いている田幡の足だった。

「奥さんが浮気でもしてるのでは?」
「その方がマシかもしれませんよ」
 内心に多少の余裕が戻り、楠田は苦笑いする。
「だって、僕は得体の知れないナニカに声をかけられ、大丈夫ありがとう、なんて答えていたんですよ。しかもアレがいるから大丈夫なんて思いながらシャワーを浴びたんです」
 戻ってきたと思っていた余裕は、喋っているうちにすぐに消え失せてしまった。自宅で感じた異様な安堵と、家の外で不意に思い出した違和感がない交ぜになって、楠田の胸の内を酷く不安定にさせる。気付けは声が震えていた。
「僕は何の疑問もありませんでした。妻も同じです。妻と同じベッドに入って、遅くなってごめんと言ったら、アレがいたから大丈夫と……、そう言ったんです」
「……」

 田幡の手が止まっていた。
 どうしたのだろう、と不安に駆られて楠田は顔を上げる。

 彼の視線の先で田幡は視線を空中にうろつかせていた。黒く艶やかな瞳があちこちへ視線を飛ばし、その度に安っぽい照明の光で煌めいている。
「必要なのは加持祈祷の類じゃありませんよ」

「病院ですか?」
 楠田の頬が痙攣するように歪んだ。
「まあ、それも良いでしょうね」
 宙を見つめたまま、田幡が淡々と言葉を接ぐ。

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