熱帯暗夜

・作

かつて父親の再婚相手である怜子(れいこ)と一夜の過ちを犯した伸晃(のぶてる)。それ以来実家とは距離を置いていた伸晃だったが、関係を持った時と同じ嵐の夜に怜子と偶然の再会をし、自分の中にある消えない想いをぶつけてしまうのだった。

 傘は、殆ど意味がなかった。

 袖をまくったワイシャツの肩やスラックスの裾は、たっぷりと雨を吸っている。幸いなことに革靴の中まで浸水していない。
 
 ホテルのロビーとガラス一枚隔てた外界は、横殴りの雨が無数の引っ掻き傷のように白く荒れ狂っている。風も強烈で水溜りが時折捲れ上がるように吹き飛んでいく。

 伸晃(のぶてる)は先程まで自分を翻弄していた雨風から目を離し、傘を折り畳む。安っぽいビニール傘だったが、意外にも骨が折れるような事態にはならなかった。

 傘と同じぐらい濡れているコンビニ袋を持ち直し、伸晃は鍵を預けているホテルのフロントへ向かう。
 フロントでは何やら女性客と従業員が話し込んでいる。

 女性の背後に少し離れて並んだ伸晃はコンビニ袋を持ち直す。
 膨らんで重たいコンビニ袋は手に食い込み、少しずつ痛み出していた。早く他のスタッフが現れてくれることを祈りながら、伸晃は気を紛らわせるために女性とスタッフの会話に耳を傾ける。

「申し訳ございません。系列のホテルも満室のようで……」
「そうですか」

 受話器を置いたスタッフが申し訳なさそうに告げ、女性は理性的に抑えた声で応える。彼女はその後、対応していたスタッフに丁寧に礼を述べた。
 そして、立ち去るために伸晃の方へ向き直る。

「あれ」
 手の痛みも忘れて伸晃は声を上げた。
 振り向いた女性を知っていたのである。

 鋭利な印象のある面立ちは綺麗に整っており、一部の隙もなさそうだ。薄く自然な感じでありながらもメイクはきっちりと仕上がっている。
 また、身に着けているものも派手さはないものの、仕立てが良くかなり値が張るものだと伸晃は知っていた。
 学生が憧れるキャリアウーマン像として、雑誌にでも掲載されていそうな美女は一瞬だけ怪訝な顔をする。だが、すぐに大きく目を開いて驚きを表情に表した。

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