千夜よりも永く君思ふ
家名を至上のものとし、身分というものがあった時代。ある家に嫁いだ千夜(ちよ)は、ひっそりと一夜限りの逢瀬に出かける。それが別れの予感に満ちた悲しいものであると知りながら……。
「千夜(ちよ)様、今なら大丈夫です」
「ありがとう」
「お気になさらないでください。あたしはいつだって千夜様の味方です」
「ありがとう」
同じ言葉を繰り返し、千夜は木戸を抜けた。
首だけで振り返ると嫁入り前からずっと側付きだったお琴が笑んでいる。どんな嫁入り道具よりも心強いのは、お琴の存在だ。彼女がいれば夫の前で死んだように微笑んでいられる。
それだけでよかったのに。
千夜は振り切るようにお琴から目を離す。
「御案内致します」
そう言ったのは背の低い男だ。短く刈り込んだ白い髪と同じ色に片方の目が濁っている。だが、そんな不自由さなど微塵も感じさせない、しっかりとした足取りで千夜を導いていく。いや、むしろ恐れに足が竦み、たどたどしいのは千夜の方であろうか。
日が暮れてから女が出歩くなど滅多なことではない。そのことを慮ってか、男は人気のない小路をするすると歩いていく。たちまち千夜は方向感覚を失い、二度とこの迷路から抜け出せないのではと猜疑心に駆られる。だが、そんな彼女の猜疑心を溶かすように、小ぢんまりとした社がそ姿を現した。
初めて清史郎(せいしろう)と会った場所だ。
初詣の折に道に迷った千夜を清史郎が見つけたのである。たったそれだけのことであった。しかし、用があり、外出する時には必ず千夜はこの場所を訪れるようになっていた。
言い訳など簡単だった。
子どもを授かりますようにと祈願しております。ただそれだけ言うと夫は満足した。
千夜の価値は後継ぎと縁故に過ぎぬ。
分かっていたが、清史郎と出会ってからはその事実が身を焼くほどに憎らしい。
どうにもならずお琴に打ち明けた。そのことが良かったのか、はたまた悪かったのか。
千夜は頭上の丸い月を見上げる。
月は何も言わない、そのことが千夜を心安らかにしてくれる。
「あのお社に清史郎様が居ります。人払いはしております。一刻程で、またお迎えに上がります」
「はい」
月を見上げたまま千夜は返事をした。
そうしていないと嬉しくて嬉しくて涙が零れてしまいそうだった。こんなことで自分は泣けるのだと、千夜は初めて知る。今まで涙など流したことがなかったのだ。
すっと近くから人の気配が遠のいた。きっと案内をしてくれた男が姿を隠したのだろう。
千夜は月を見上げることをやめ、社へと足を進める。さくさくと足元で枯れた笹の葉が音を立てた。その音につられるように周囲の竹が風に揺られ、さらさらと鳴く。
風に背を押されるように千夜は社へと辿り着いた。
千夜よりも永く君思ふ
ぜひ、読むべきです。
紳士 さん 2020年12月16日