胸の花が綻ぶと (Page 2)
そもそもこの私設図書館には、いわゆる一般的な書店で販売されているような書籍は殆ど置かれていない。蔵書の殆どが日本各地から蒐集された文献の類であったり、学術書や論文の類であったりして、娯楽作品は数えるほどしかない。その娯楽作品も希少な絵本などの芸術の域にすら達した代物だ。ただし、この図書館ではそういった希少な書籍をデータ化し、本来の読者、即ち子どもたちにも閲覧できる形を整えている。
――というのは全て汐里の受け売りで、藤馬はこの図書館を利用したのは一度きりだ。レポートに必要な資料が見つらず、汐里に代わりの論文を探してもらったのである。
「あ、そうだ。汐里さんにおすすめされた本、読んでみた」
鞄から文庫本を取り出し、藤馬は感想を伝える。それを汐里は穏やかな表情で聞いていた。
この時間を藤馬は本当に愛おしく思っている。読書に興味など欠片もなかった彼が足繁く書店に通って、新刊をチェックし、勧められた本を読み漁っているのはこの時間を続けるためだ。
友人と飲み歩く時間を減らし、読書の時間を作っている。まさしく藤馬は自分の時間という、ある意味では金銭以上に価値のあるものを汐里に貢いでいた。
しかし、楽しい時間というものは長続きしないもので、あっという間に終わってしまう。
汐里は腕時計に一度視線を落とし、残念そうに藤馬に告げる。
「そろそろ閉館時間になるから」
「了解っす」
軽く返事をして、藤馬は利用者のいない図書館から外へ出た。昼間の熱の名残が体にまとわりついてくる。空はすっかり暗くなっており、真夏の頃よりもずっと早く月が顔を出していた。
銀色のプレートの隣に寄りかかり、藤馬は汐里が現れるのを待つ。駅までの短い時間ではあるが、まだ彼女と一緒にいることはできるのだ。
不意にポケットの中でスマホが振動する。取り出すと、友人から飲み会の誘いが来ていた。藤馬は苦笑し、断りの返信をする。
スマホの画面に目を向けていた彼は、聞こえてきた話し声に顔を上げた。その声は楽しげに笑う汐里の声で、彼が一度も聞いたことがないようなものだった。喉の奥が詰まったような心地で藤馬は汐里の姿を探す。
関係者用の出入り口から現れた汐里は、初老の男性と歩いていた。品のいいスーツに身を包み、ダークグレーの髪を撫で付けた紳士然とした人物である。その男性に向けて汐里は本当に楽しそうに、それでいてはにかむような表情を向けていた。
「おまたせ」
「いや、大丈夫っすよ」
藤馬にも会釈をして去っていた紳士の背中をちらりと見て、彼は言うべき言葉を探す。
「いいんスか? あの人と帰んなくて」
「うん? 別に大丈夫よ?」
「そっすか」
ちくりと棘が刺さったような気がして藤馬は密かに自分の胸を撫でる。
それでも彼はいつも通り笑って言葉を継ぐ。
「駅まで送ってきますよ」
普段と変わらない軽くて薄っぺらな笑顔を顔に張り付け、藤馬は汐里の隣を歩む。
空は濃紺と薄い青、のっぺりした黒がせめぎ合い昼と夜の間を造るようにグラデーションを描いている。
透明さを増した光の下で、彼は隣を歩いている汐里の横顔を盗み見た。自立した女の顔がそこにはあった。自分が大人ぶった子供でしかないと、思い知らされた気分になる。
笑いながらも脳裏には、あの紳士の顔がちらつく。そして、彼に笑顔を向ける汐里の顔も。
「……勝ち目あんのかな」
藤馬は思わず口にしていた。
けれど、汐里には気付いた様子がまるでない。その程度のものかと、ひたすら自虐的な気分に落ち込んでいく。それなのに藤馬の顔はずっと軽薄に笑っている。
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