失われるものとの約束

・作

大学生の佐伯幸也(さえき ゆきや)は民俗学のフィールドワークのため、祖母の住む田舎を訪れる。そこで一人の女性と出会い、調査を進めていくが……。

 つづら折りの長い山道をバスがのろのろと徐行運転で登っていく。

 盛夏の頃は過ぎているが、暴力的なまでに繁茂する緑にはいささかの衰えも見えない。暴力的なまでの生命力を感じさせる木々を眺めていると、人の営みの脆さを佐伯幸也(さえき ゆきや)を考えずにはいられない。

 彼が目指しているのは、祖母の住んでいる村落だ。過疎化が進み、住人は老人ばかりの産業なども特にない場所である。

 きっと二十年も経てば住人は誰一人としていなくなるだろう。仮に生存していても、一人で暮らすことは難しく、家族の元かあるいは施設に入り、余生を過ごすことになるはずだ。そうなれば、村落は人が暮らしていた形すら遺すことができない。

 木々に飲まれ、風雨に曝されて、文字通り跡形もなくなる。

 そうなる前に。

 幸也はそう思って、バスの車窓の向こうをじっと見つめた。

 しばらくすると、彼の幼い頃の記憶と同じように簡素なバス停が現れる。終点であるそのバス停で降車すると、強い日差しと温度差に眩暈がした。

 じりじりと足元が焦げ付くような熱がアスファルトから立ち上り、逃げ水が遠く揺らめいている。

 早くも流れる汗を拭いながら、幸也はリュックを背負い直す。その中には着替えなどだけでなく、彼が愛用しているノートやパソコン、ボイスレコーダーやカメラなどが入っていて、それなりの重量になっていた。

 フィールドワークをそれなりにこなし、研究室にこもるだけの同期ととは違い、貧弱ではないつもりだった。しかし、照りつける太陽と足元から上がってくる熱気に、彼はふらふらと道の脇にしゃがみ込んでしまう。

 倒れそうになり、手を突いた近くの石垣は火傷しそうなほど熱い。幸也は小さく呻いた。縋る場所もないのか。

 熱中症。

 そんな単語が幸也の頭に浮かぶ。

 水を飲まなくては。その一心でリュックを下ろし、漁るがどうにも取り出せない。もどかしく思いながらも、リュックをひっかきまわしていると、不意に声が天から降ってきた。

「大丈夫ですか?」

 同時にさっと彼の頭の上に影が落ちる。

「これ、とりあえず飲んでください」

 差し出されたペットボトルの口は開いており、幸也は口の端から零しながら一心に飲み下した。すると茹で上がった脳に冷静さの欠片が戻ってくる。

 幸也は親切な声の主に視線を向けた。そこには彼と同世代ぐらいの若い女性が心配そうな顔をして立っている。ボーイッシュな短髪とシャープな輪郭からは闊達そうな印象を受けるが、彼女の声音は至極落ち着いて静かなものだった。

 差しかけられた大きな麦わら帽子の陰の下から、幸也は礼を述べる。

「ありがとうございます」

「熱中症かもしれませんね」

「バス停から少ししか歩いてないんですが……」

 女性はちらりとバス停に目を向けた。あまりの近さに呆れられたかもしれない。そんなふうに幸也は思った。

「体が随分、鈍っていたみたいです」

「そうかもしれませんね。これを被ってください」

 麦わら帽子を差し出され、大人しく幸也は頭に乗せる。日影が顔の周りにあるだけで、楽になった気がした。手に持ったままのペットボトルを一気に飲もうとして女性に止められる。

「ゆっくり飲んでください」

 言われるままに幸也はゆっくりと中身を飲み下す。彼の素直な様子を見て、女性がうっすらと笑んだ気がした。それから彼女は幸也の額に手を当てる。小さな子どもにするような仕草だったが、幸也は抵抗することもない。ひんやりとした女性の手の感触が心地よく、そんな気持ちすら起きなかった。

「心配ですから、お家まで送りましょう」

 女性はそう言い、幸也の手を引いて歩き出す。

 逃げ水が光り、地面と虚空の境界が揺らめく中を二人は静々と歩いて行った。小さな村落の中は熱に溶けてしまったようにことりとも音がしない。

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