シガレットキス

・作

ひょんなことから再会した加藤(かとう)と小野島(このしま)。かつての教え子であるはずの小野島のことを思い出せず、加藤は誘われるままに彼女と体を重ねる。鬱屈した思いを抱える二人の交わりはシガレットキスのように、少し遠くて近い。

昨今では珍しく、その小さな居酒屋では煙草が吸えた。

 加藤(かとう)は背広を椅子の背もたれにひっかけ、メニューを見るよりも早く煙草に火を点けた。紫煙を胸の奥深くまで吸い込む。そして、ゆっくりと時間をかけて吐き出すと昼間の嫌な感情も同時に吐き出せる気がする。

「ご注文お伺いしまーす」
 明るい声で言われ、加藤は生ビールと相手の顔も見ずに答えた。
 煙草を堪能しているとすぐにビールが加藤の掛けているテーブルへと運ばれてくる。お通しはない。そういう部分にも加藤は、店に対して好感を抱く。

 煙草をつまみ代わりにちびちびとビールをやっていると、疲れた体にアルコールが回っていくのを感じる。穏やかな酩酊が次第に現実感を加藤から引き剥がしていった。

 ビール一杯で随分と酔いが回っている。

 紫煙の向こうに並べられた何種類もの酒瓶を見つめ、加藤は自分の疲労度合いを知った。
 煙草は一本、二本と灰皿に積み上がっていく。反対に酒は最初のビールが半分程度残ってジョッキの中でぬるくなっている。気泡もなくなり、黄金色の液体を加藤は持て余していた。
 しかし、その始末をつける算段はまるでない。

 加藤は根元まで吸った煙草を灰皿に押し付けて消火する。
「簡単に消えるなぁ」
 ぽつんと独り言が口から零れた。

 その独り言へ被せるように大きな物音が背後から響く。物が倒れる音と食器が割れる音が連なる。

 のろのろと加藤が背後を振り返ると、床に女が倒れていた。店内の暗い照明をショートの銀色の髪が弾いている。だが、女は年寄りというわけではない。酔いのせいではなく赤くなっている頬には瑞々しさがあった。
 床に倒れている女の前には一目で激昂していると分かる形相の男が立っている。

「ふざけんなっ!」
 男は声を張り上げ、倒れている女の胸倉を掴んだ。その様子を店員がおろおろと眺めている。
「別れねぇぞ!」
 ああ痴話喧嘩か、と加藤は冷めた目で男を見る。そんな加藤の思いとは裏腹に、勝手に体は椅子から立ち上がっていた。
「お兄さん、煩いよ」
 新しい煙草に火をつけ、加藤はぼそぼそした声で言う。声量がなかったせいか、激昂した男の耳には届かない。

 煙を吐き出し、加藤は女へ馬乗りになっている男の頭頂部へ煙草の先端を押し付けた。
 もちろん、火の点いている方だ。
 髪の毛が焦げる嫌な臭いが加藤の鼻先を掠める。その後を追うように男が悲鳴を上げて、女の上からどく。慌てている男の髪を掴み、加藤は彼を床の上へとひっくり返す。ごん、と鈍い音がして男は後頭部を押さえて悶絶した。

 加藤はぽかんとしている女の手を掴んで無理に立たせ、椅子の背から背広を取り上げた。それから、まだおろおろしている店員に一万円札を手渡す。
「ビール、一万もあれば足りると思うんで。あ、それから俺はこれから警察に行くんで、あのお兄さんにもそう言っといてください」
 それだけ告げ、加藤は振り返らずに女を連れて店を出た。

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