硝子 (ガラス) の恋
私と彼は、硝子一枚を隔てたような関係だった。「綺麗な名前ですね」―――それが、彼の私に対する第一声だった。
登場人物
霧谷 硝子(きりたに しょうこ) 音大に通う女子大生 フルートを専攻している
遊佐 静馬(ゆさ しずま) 硝子が好意を寄せている大学の講師 40代男性 物静か
私と彼は、硝子一枚を隔てたような関係だった。
「綺麗な名前ですね」
それが、彼の私に対する第一声だった。
私がフルートを専攻して音楽大学に進学した春、その講師を務めていたのが彼だった。
彼は自らを「遊佐 静馬(ゆさ しずま)」と名乗ったあと、学生たちにも一人ずつ簡単な自己紹介をするように促した。
初々しさでいっぱいの学生たちが、出身や専攻している楽器などについて話し出す。
私の番が回ってきた時、軽く緊張しながらもスカートの裾を直しつつ、皆の前に立った。
「霧谷 硝子(きりたに しょうこ)といいます。漢字は、ガラスと書いて硝子です。フルートを専攻しています」
月並みな言葉だけで済ませると、彼は私の方を向いてゆっくりと微笑み、「綺麗な名前ですね」と言った。
囁きかけるようで、どこか甘美さと、薄荷のようにすっきりとした明瞭さを併せ持つような声だった。
私はこの時から、彼に恋をしていたのだと思う。
大学生になったからといって、いきなり大人っぽくなれるわけではない。
彼は40代という年齢でありながらそれを感じさせないほどの若々しさと精悍さがあり、身体が白いシャツに包まれていても、立派な筋肉がついていることが分かるほどだった。
私は自分の顔を鏡で見るたびに、悲しいほどに童顔な顔を呪わしく感じた。
勉強熱心なふりをして何かと彼に質問をしにいっては、他愛ない会話を楽しんだ。
彼はいつでも優しく受け入れてくれたが、プライベートな話題や彼自身については積極的に明かそうとはせず、いつも微笑んだままゆっくりと話をそらした。
大学2年生になり、4月生まれの私は早速20歳になった。
新入生歓迎会の日、彼は学生たちに「飲みすぎないように」と釘をさしつつ、いつになく楽しそうにお酒を飲んでいた。
私が最後まで残って後片付けを済ませると、意外にも彼がタクシーで一緒に帰ることを提案してくれた。
時間を過ぎても来ないタクシーを二人で待ちながら雑談をしていると、急激に空が雲に覆われて雨が降り出した。
私と彼はどちらも傘を持っておらず、彼が急いで自分のジャケットを脱いで、自分と私の頭を守るように被せた。
その一瞬で引き寄せられた身体が、彼に触れる。
「狭くてごめんね。タクシーが来るまで、少し我慢して」
彼がそう囁き、私はドキドキしながら強く頷いた。
ものの5分ほどでタクシーは到着したが、雨が強過ぎたために私たちは既に濡れ鼠のようになっていた。
「先生、もしよければ私のマンションに少し寄って行きませんか?タオルくらいでしたら、お貸しできますので」
「ありがとう。でも、申し訳ないから大丈夫だよ」
「でも…」
私はふいに彼の手に触れると、雨に打たれた大きな手は少し冷えていた。
「分かった。それでは、お言葉に甘えようかな」
彼はそう言うと、私のマンション前で一緒にタクシーを降りた。
美しい文章でした
匿名 さん 2020年4月26日