心を満たし溺れるもの (Page 2)
飯沼澄佳(いいぬま すみか)だ。
彼女は加藤が経営する塾に子供を通わせている保護者の一人である。
髪を耳にかけた横顔は、綺麗に整っていることもあって見間違えようがない。容姿が優れているということは、それだけで特徴として目立つものだと、加藤は場違いにも思った。
そんな彼の視線の先で男性が再び口を開く。
「今回は残念な結果でしたが、まだご案内できる投資は幾つもあります」
なるほど、と彼は呆れと共に理解した。
実は彼女は塾の月謝を滞納している。
澄佳が塾の月謝を用意できなかったのは、この投資話に使い込んでいたからだろう。
子供の塾の月謝まで注ぎ込むとは随分な入れ込みようだが、結果は伴わなかったらしい。
確実性が高いだの、倍になるだのと聞こえの良い話に丸め込まれたのだろう。
こういった話に迂闊に飛び込まないように、学問や知識、そしてそれを扱う知恵というものを養う必要があると加藤は考えている。それは将来、自分で金を稼ぐことにも十分使えるのだから。
だが、皮肉なことに、その生徒の保護者がリスクも考えず投資話に飛びついて、いいように食いものにされている。
これ以上月謝を滞納されても困るのは加藤だ。
「ごほん」
分かり易く咳払いをして、加藤は資料をばさりとテーブルの上に投げた。すると澄佳と男性の視線が彼に向けられる。不機嫌な渋面を作り、ちらりと視線をやると二人揃って目を逸らして声を潜めた。
これで正気を取り戻せばいいが。
加藤は淡い期待をして、再び放り投げた資料を取り上げた。
しばらくすると澄佳と男性は店を出て行き、さらにしばらく待つと店はディナータイムになった。加藤は食事を楽しみ、満ち足りた気分で店を出る。
「加藤先生」
その満ち足りた気分に冷や水をかけられ、彼は立ち尽くす。
呼びかけられて首だけで振り返ると澄佳の姿があった。まさか、ずっと待ち構えていたのか。そう考えて彼が驚いていると、彼女はゆっくり歩み寄ってきた。
反応してしまった以上、無視はできない。観念して加藤は澄佳に向き直る。
「あの、先程の――」
「何も聞いていませんよ」
相手の言葉を遮って、加藤はさらに言葉を連ねる。
「生徒の、それも保護者のプライベートに首を突っ込むことはしない主義です」
「……それは」
「今日のことに、こちらからどうこう言うことはあません。もちろん他言もしません」
不安そうな顔の澄佳に目礼だけして、加藤はその場を後にした。
そんなことがあってからも日常は変わらない。
加藤は塾の経営と運営に集中し、澄佳との面倒事は少しずつ日々の忙しさに沈んでいった。
とはいえ、それは面倒事の解決を先延ばしにしただけに過ぎない。
だから、月末が近づき経理の点検を行い、生徒の資料をまとめていれば、嫌でも澄佳が月謝を滞納していることを思い出す。
果たして今月は月謝が支払われるのか。
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