心を満たし溺れるもの (Page 3)
生徒の資料と保護者に手渡す月謝の領収書を見つめながら、加藤は教室で暗澹たる面持ちで腕組みをしていた。
保護者面談の当日。
普段は生徒がいる教室には加藤しかいない。
なぜなら、約束の時刻になっても澄佳が現れないからだ。
夜逃げでもしたか、と一瞬考える。その疑念を払うためにも加藤は澄佳に電話をかけることにした。だが、留守番電話になってしまい、応答がない。
退塾した生徒は今まで何人もいたが、最悪のケースだ。
二ヶ月分の授業料が、そっくりそのまま赤字になる。
「クソ」
毒づいて電話を切り、椅子にもたれて天井を加藤は見上げた。生徒の出来は悪くなかった。悪かったのは親の出来だけ。
そうして加藤が年甲斐もなく不貞腐れていると、控えめに教室のドアがノックされた。
驚いて彼は椅子から落ちかけたが、何とか体勢を立て直して立ち上がる。
「飯沼さん」
ドアを開けると、そこには澄佳が立っている。だが、彼女の表情は暗い。
「今日は、もういらっしゃらないかと思いましたよ」
ドアの前から退いて加藤は、澄佳を教室へと招き入れる。だが、彼女はなかなか入ってこない。
「どうしたんですか?」
「本当にすみません」
唐突に澄佳が腰を折って、そんなことを言い出した。
さらさらした彼女の亜麻色の後頭部を見下ろす加藤は、心底うんざりした顔になる。
「月謝は支払って頂けないんですね」
「すみません」
「謝って頂きたいわけではないです」
きっぱりと言い放ち、加藤は今度こそ最後通牒を告げた。
「月謝を払って頂けないのなら申し訳ありませんが、お子さんには退塾して頂きます」
「そんな……!」
勢いよく顔を上げ、澄佳は加藤に縋りついた。憐れっぽく目を潤ませ、唇を戦慄かせている。だが、そんなものに彼の心は小動もしない。
「契約書にも記載してありましたし、一緒に確認して頂いたはずです」
「でも、それじゃ、あの子が」
「教えてあげたらいかがですか? 自分が投資に失敗して、その補填を教育費でした結果だと」
「そ、そんなこと言えるはず――」
「あなたの行動の結果ですよ」
ぴしゃりと加藤は言い捨て、澄佳の手を振り払う。これ以上、馬鹿らしい言い訳に付き合うのは時間の無駄だ。
「ご家族としっかりと話し合った方が宜しいでしょうね」
「できません、そんなこと」
お願いします、と澄佳は加藤の腕に縋りついたまま頭を下げた。
加藤は溜息を吐くしかない。
彼女がここまで必死になっているのは、自分の体面を保つためだろう。
良き母。
良き妻。
そんな他人からの評価を維持するため、彼女は加藤に泥を被れと言う。あまりにも身勝手だ。
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