恋と呼ぶには近すぎる (Page 2)
玄関から出ると、粘度を増した空気が肌にまとわりつく。熱帯夜特有のねっとりした湿気とむせそうな熱気が静かな夜の町を満たしていた。
夜気をかけ分けるようにゆっくりと龍之介は歩いていく。住宅街の端にあるアパートの周囲はとても静かで、背後から駆け寄ってくる足音がやけに大きく彼の耳に届いた。足を止め、龍之介は背後を振り返る。そこには駆け寄ってくる晴稀がいた。不機嫌そうな顔をして、一直線に彼へと近づいてくる。
「置いてかないでよ」
追いつくと彼女は開口一番そう言って、龍之介の胸を小突いた。
「他の連中と一緒にいなくていいのか?」
「え? いや、汗かいたからシャワー浴びたいし。ソーセキの家、近くなかった?」
彼女は二人きりの時に時折、龍之介のことをソーセキと呼ぶ。
理由を聞くと、夏目なのに名前が龍之介でちぐはぐだからだと言われた。芥川じゃなくていいのか、と彼が問うと、晴稀は夏目漱石の方が好きだと笑うのだった。思い出しように呼ばれるその奇妙なあだ名は、龍之介以外は聞くことがない。
「そりゃ近いが、お前、うちで風呂に入る気か?」
「いいじゃん、別に。気にするようなもんでもないし」
晴稀はそれだけ言ってすたすたと歩き出した。
背中を追う形になった龍之介は彼女を大股で追う。気難しい顔をした龍之介は、自分とは対照的な人の良さそうな青年の顔を思い出していた。
「あいつ。きっとお前に気がある」
「あいつって、誰?」
「名前は、覚えてない」
「覚えてないんかい」
笑いながら晴稀はまた龍之介を小突いた。その気安い仕草に思わず彼は出てきたばかりのアパートを振り返ってしまう。しかし、件のアパートは街灯の灯りを受けて身動ぎもせず、そこにあるばかり。彼が気を揉む相手は影も見えない。
名前すら覚えていない相手のために気を揉むのが馬鹿しくなり、龍之介は頭を掻いた。指先が汗で微かに汗で湿る。その感触に顔をしかめ、彼は再び歩き出した。
「っていうか、人をなんだと思ってんのさ」
「がっついた奴」
「おいっ」
「彼氏いるんじゃなかったか?」
「……別れた」
「はぁ?」
「別れた」
ぎろりと目の前に別れた恋人がいるかのように晴稀は龍之介を睨んだ。わずかに彼が怯むと、晴稀は龍之介の胸倉を掴んでガクガクと前後に揺する。
「信じられる!? あいつ、浮気してたのよ!? しかも私が二番目とか抜かしやがって!」
「叫ぶな。揺らすな。気持ち悪い」
安酒が胃からせり上がってきそうになり、龍之介は晴稀の手を掴んで止めた。
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