紅いレインコートのひと (Page 3)
音がぴたりと止まる。
かろん、という音が失せ、代わりに土を踏む音が間近でした。
地面に釘付けだった視線が思わず上がる。そこには女物の下駄履きの足があった。素足である。雨で濡れたそれは微かに泥で横れていた。
足が動くと、紅いものがひらりと揺れる。
スカートかと蘇芳は思った。だが、それは丈の長い紅いレインコートであった。
両手で口を塞ぎ、蘇芳は訳の分からぬ恐怖にとらわれて呼吸を止めている。
恐ろしいと心底から震えていた。
不意に紅いレインコートの人物の動きが停まる。足の下で踏み付けられた草が断末魔のように鳴った。
「おやぁ」
声は女のものだった。
ゆっくりとレインコートが翻る。
フードの下にあったのはやはり女の顔であった。整った顔貌の美しい女である。だが、右の眉の真ん中辺りから真っすぐに傷が降下している。傷は眉だけでなく、その下にある目を通過し、頬骨の辺りで止まっていた。
本来は眼球があるべき場所には暗い虚ろがある。
だが、その虚ろを見て蘇芳は美しいと感じていた。
その欠落に魅入られていた。
ミロのヴィーナスの美しさの根源は両腕がないことによる空白、欠落だと何かで聞き齧ったことがある。その時はまるで理解できなかったが、今の蘇芳にはよく分かった。
「うちに何か御用ですか」
残った左目を細め、紅いレインコートの女が訊ねる。
蘇芳の脳裏に紅いレインコートのひとの話が浮かび上がった。もしやこの人物がそうではないのか。浮世離れした美貌と雰囲気を持っているので、どこかで噂にでもなったのかもしれない。
蘇芳は恐怖と衝撃に痺れた脳髄でそんなことを考えた。
彼が何も答えずにいると、レインコートの女が歩み寄ってくる。そして、蘇芳と同じように座り込む。同じ高さになった二人の視線が絡み合う。蘇芳は間近で見る美貌と、その欠落に目を奪われた。
「ふぅん」
紅いフードの下で女が目をさらに細める。品定めをするように蘇芳の全身に視線を這わせた。
「あの、す、すみません。雨宿りをしていて」
しどろもどろに蘇芳が弁明していると、女がふわりと立ち上がった。つられて蘇芳も立ち上がる。
彼女は紅いレインコートのフードを払い、女は雨の下へと素顔を晒す。すると銀色の髪が後を追うようにレインコートの背へと滑り落ちた。
「まだ、雨は止みませんが、どうしますか?」
どうするか、とは雨宿りをしていくかという意味だろうか。
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