失われるものとの約束 (Page 3)

 朝露に濡れた庭を横切り、幸也はふと思いついて川へと足を向ける。

 祖母の言っていたのんのさんが居るという意味が気になったのだ。古い土着信仰が現代に至るまでの変遷を研究対象としている幸也にとって、またとないサンプルを得ることができるかもしない。

 だが、行くな、と祖母が言うからには何かしらの禁忌にあたるのだろう。だからこそ人目のない早朝に一人で調査しなくてはならない。カメラなどの記録媒体を持参したいが、見つかった場合の言い逃れが難しくなるだろう。そのため幸也は軽装で向かうことにした。

 祖母の村落での立場を悪くしたくない。そんな思いも確かに彼の中にあった。

 研究者として私情を差し挟むことはよくないが……、そんなことをつらつらと考えているうちに、幸也は川に辿り着いていた。

 高く繁る葦をかき分け、川縁に辿り着いた幸也はそっと流れる水に触れる。驚くほど冷たい流れから手を引き、周囲を見回す。何も祭りに関わるようなものは見当たらない。ましてや禁忌を犯す者は彼以外に誰もいなかった。

 水辺を異界との境界と看做す信仰が変形したのだろうかと幸也が黙考していると、不意に背後から声をかけられる。

「お体は良くなりましたか?」

 弾かれたように振り返ると、先日彼を助けてくれた女性が立っていた。幸也の驚き方が滑稽だったのか、彼女はくすりと笑う。

 ばつの悪い思いで幸也は目を逸らした。

 彼のその様子を見て女性はくすくすと楽し気な声を出す。

「……川辺は祭りの期間中には来てはいけないのでは?」

 女性はそれを聞いて笑みを深くした。

「よく、ご存じですね」

「祖母からか聞きました。のんのさんが居るから、川には近づくなと」

「小さな頃にも、そう言われませんでしたか?」

 子どもと同じだと言われた。そう思った幸也は、きっと視線を上げる。女性をひたと見据え、反論した。

「俺――私は研究者です。のんのさんという存在が如何なるモノなのか、知る必要があります」

「それでしたら」

 笑みを崩さず、女性は村落の方向を指さした。

「村田という古老を訪ねてみてはいかがですか?」

「ムラタさん?」

「ええ。あれなら、貴方の知りたいことを語るでしょう。梨木千和(なしき ちより)の紹介だと仰ってください」

 村落に向けられていた千和の視線が再び幸也に返ってくる。

「それでもまだ知りたいことがあれば、神社にお出でください」

「神社? 縁起か何かあるのですか?」

 そう訊ねた幸也は体を硬直させた。滑るように移動してきた千和が彼に身を寄せてきたからだ。

 彼が何も言えずにいると、耳元に囁かれた。

「また、お会いしましょう」

 耳朶を嬲るような声音にさらに身を固くした幸也を残し、千和は河原から姿を消す。取り残された幸也は暴れる心臓を宥めつつ帰宅する。

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