ある事務職の甘い風景 (Page 2)

 結局、その日は残業になった。

 定時間際になって、古坂が資料の提出を明日の朝までと告げたのだ。

 俺は抗議の声をあげたが、若川さんが了承してしまったので拒否のしようがない。

 曰く「余計な指摘を減らすため」らしい。

「……残ってるの、私たちだけですね」

 若川さんが椅子ごと俺のそばに移動してきて、俺の手元に目を向けた。

 肩が触れて薄手のブラウス越しに暖かさが伝わってくる。

 ただの自意識過剰だけど、ちょっといい匂いするし、意識しない方がおかしいだろう。

 俺は手を止めて、理性が負けないように身体を少し離しながら彼女の横顔を見つめた。

 俺のノートパソコンの画面を見ていた彼女が、不意に俺の方に顔を向ける。

 すぐ目の前に、悪戯っぽい瞳でにへらと笑う若川仁美の美人顔があった。

 ほのかに甘酸っぱい彼女の匂いに年甲斐もなくキュンとしたが、慌てて頭を切り替える。

 こんな顔は、一年前には決して見せなかった。

 常に鋭い眼光で周囲を威圧し、近寄りがたい女性だったのだが、今では笑い合えるくらいになった。

 彼女がここまで頑張ってくれたのは、心から嬉しい。

 もしかしたら、こんな会社は辞めて他に移った方が幸せだったかもしれない。

 もっといい出会いもあっただろうし。

「……嬉しそうだね?」

「へへへ。だって、もう終わりですよね?」

「いやいや。ツッコミどころがないか再確認しないと。そもそも、明日また気が変わるだろうから、その対策も――」

 俺は、最後まで台詞を言えなかった。

 暖かいものが唇に触れ、俺の口を塞いでいる。

 甘酸っぱい匂いと熱い吐息を感じながら、目の前の切れ長の目を見つめた。

 潤んだ瞳は少しお怒りのようで、有無を言わせない光を宿している。

「……ハッピーアニバーサリー、私、です」

 唇を離した若川さんが、頬を赤く染めて小首を傾げながら無邪気な笑みを浮かべた。

 艶のある髪がさらさらと流れる。

「え? え? え?」

 俺は混乱しつつ、慌てて周りを確認した。

 幸い、広いオフィスには本当に二人だけらしい。

 俺、キスされた?

 いやいや、何かの間違いだろう。

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