身も心も1つに
中途入社した会社で結果を出し本社への栄転が決まった佐藤隆は、自分の教育係だった林田美久に密かな好意を持っていた。しかし彼女は心を読むようにクライアントを手玉に取ることで社内屈指の営業マンに登り詰めた人だったため、彼にとっては高嶺の花だ。隆はそんな彼女と頭の中で逢瀬を重ね、ついには彼女の嬌声が聞こえるようにすらなっていた。同じく美久も隆に愛される空想に悩まされる日々を送っていた。
『あ、あん!ん、く、んんっ。んあ!』
荒い息遣いとともに、頭の芯を揺さぶる嬌声が聞こえてくる。
しかし、俺の見える範囲はただのオフィスで、同僚たちが忙しげに働いているだけだ。
俺は耳を両手で塞いだが、それでも女の悦声が止むことはない。
隣の席の林田美久が俺を見て首を傾げているようだが、その顔を見ることなんてできない。
なぜならこの声は、美久の声なんだ。
確かに俺――佐藤隆はこの女性に好意を持っている。
彼女は、相手の心を読んだかのようにクライアントの先回りをし、いくつもの案件を受注した伝説の人だ。
そんな人が、中途入社した俺にこの業界の常識からすべてを教えてくれた。
すごく頭がいいし、優しいし、教え方もうまい。
おかげで俺は早々に売上をあげられたし、昇進も内定して栄転も決まった。
俺はそんな恩人で高嶺の花の彼女と、頭の中で会話し、デートして、今では毎日卑猥な妄想をし続けている。
いくら欲求不満でも、度が過ぎているだろう。
でも、なんでこんなに優秀で可愛い人が、現場ではなく小さな支店で教育係をやっているんだろう?
「ふふ。みんな、私のことがホントに怖いんです」
「え?」
「耳、を、塞いでたら、聞こえないですよ!ね、佐藤さん」
彼女が半ば強引に、俺の手を耳から離して言った。
俺の腕にぶら下がるようにして顔を赤くした彼女は、少し太い眉を八の字にしつつ低くて小さな鼻を膨らませている。
への字になった桃色の薄い唇が、たまらなく愛くるしい。
そのくりんとした黒い瞳を見つめていると、いますぐ抱きしめたい衝動に駆られる。
『うん。ギュッてして』
「あ、ああ、すみません。大丈夫です。ちょっと耳がぼうっとして」
「んふふ。耳垢が溜まってんでしょ?取ったげますよ?」
『んあっ!や、やあ!ちがっ、ぎゅってえ!』
彼女の親しげな笑顔に、卑猥な喘ぎ声が重なる。
俺はハッとして、また耳を塞いだ。
「……むう。そんなに嫌がらなくてもいいのに」
頬を膨らませた彼女は、ただでさえちっちゃくて丸い顔がまん丸になっていた。
会社の売上の半分を稼いできた人間とは思えない無邪気さだ。
俺は思わず「ぷっ」と吹き出した。
「もう!佐藤さん、酷いです。何がおかしいんですか?」
「ははは、いや、別に。ちょっと思い出し笑いです。すみません」
俺は謝りつつ、『美久が可愛すぎるから笑うしかなかったんだよ』と心の中で正直に話した。
『ん、んあ!嬉しい。隆さんも素敵なのお、んん』
すぐ隣で頬を染める美久の笑顔に、頭の中の彼女の艶めかしい嬌声が重なる。
「ま、まあ、いいです。来週からは本社なんですから、行っちゃう前に、全部片付けてくださいね」
「すみません。送り出してくれる林田さんには、迷惑かけないようにします」
複雑な表情を作る美久から視線を逸らし、俺は軽く頭を下げた。
彼女の表情が少し寂しげに見えたのは、俺と一緒にいたいからかな?
いい年したおっさんが都合のいい妄想をしてしまって、我ながら気持ち悪い。
無言で席を立った美久を目で追いかけると、潮が引くように彼女に道を空けていく同僚たちが見える。
あの若さで本当にすごい人だ。
頭の中でならすぐにその手を取って抱きしめるが、現実では俺の手が届くような人じゃない。
*****
レビューを書く