民宿の一夜
最近妻の浮気が原因で離婚した西村敦は、久しぶりに取れた長期休暇を使って若い頃のように行き先を決めない旅に出た。3日目の夕方に海沿いで見かけた民宿に入ると、そこにいたのは夫を亡くして1人で民宿を営業する絵美という女性だった。美味しい食事と風呂の後、部屋でのんびりしているところを絵美に誘われ、食堂で一緒にフルーツを食べることになった2人。そこで絵美が敦に「あなたは亡夫に似ている」と言うと、彼女を好もしく感じていた敦は思わず…
海沿いの小さな民宿を見つけて、西村敦は乗っていたバイクの速度を落とした。
久しぶりの長期休暇を、若い頃のようにあてのない旅行に費したくなって衝動的に出かけたのは2日前のことだ。
有料道路を使わずに長時間バイクを走らせると、夕暮れ時にはぐったりとしている。
20代の頃なら夜通しでも走れたのにと思うと少しがっかりするが、現地で見つけた行き当たりばったりの飲食店や宿を「外さない」勘だけは衰えていないことが昨日からわかっていた。
「すみません」
灯のついた民宿の入り口を開けて、敦はやや大きめの声を出した。
田舎の民宿では、平日は客が少ない場合も多く、主人が奥の自宅に引っ込んでいることも多いからだ。
「はぁい」
奥の方から返事の声がして、パタパタと足音がする。
「今晩の宿泊って可能ですか?」
現れた女性に敦は尋ねた。
「はいはい、大丈夫ですよ」
笑顔で敦を迎え入れた女性は、敦と同年代か少し若いように見えた。
海沿いにあるこの民宿には不似合いなほど白い肌と、ひとつに束ねた艶やかな黒髪が美しい。
「お夕食はどうなさいますか?」
敦が宿帳を書いていると降ってきた柔らかい声に、今日の宿もやはり当たりだなとしみじみ感じた。
「ああ、まだなんですが…」
このような小さな民宿で、18時を回ってから突然現れた宿泊希望者に十分な食事を用意するのは難しいかもしれないと心配したが、女性の返答の声は明るく軽やかだ。
「でしたらご準備しますね」
宿帳を書き終えて敦が顔を上げると、女性と目が合った。小首を傾げてにっこり笑った顔は薄化粧なせいかどこか幼く、可愛らしかった。
「ありがとうございます」
「では、お部屋ご案内しますね。お夕食は19時過ぎにはご準備できますから」
「はい」
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食事は、短時間で準備したと思えないほど手が混んでいるように敦には思えた。新鮮な魚料理からはこの土地らしさも感じられ、まさに旅の醍醐味といった趣の食事に舌鼓をうった。
食事中に、案内してくれた女性に敦が聞いてみると、彼女のことがいろいろとわかった。
彼女はこの民宿の女主人で、名を今井絵美といった。
絵美は夫と2人でこの民宿を始めたものの、3年前に夫が病気で他界したため今は1人でこの民宿を営業しているのだそうだ。
美しいがどこか疲れたような色っぽさがあるのは、夫を喪ったからかもしれなかった。
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