兄さんの妻 (Page 2)
「……帰ってくれませんか」
コーヒーはまだ湯気が立っていた。俺は一縷の望みを賭けて呟いた。
「却下。他には?」
「……アンタ、家政婦なんじゃないのかよ。悪いけど今日でクビだ。雇い主の命令には従ってもらうぞ」
山下里香は優雅にコーヒーを飲みながらも、決して俺から視線を外そうとはしなかった。しばらく睨み合っていたが、すぐに俺が根負けした。――この女、初めて会った時から大嫌いだ。テレビで見た時とは全く違う、ロボットのような女――兄さんそっくりでイライラしてくる。
「あの、もしかして――山下里香ちゃんですかァ?」
ツン、と鼻につく香水の香りがした。見知らぬチャラ男が彼女の横に立っていた。男は俺を嘲るようにジロリと睨みつけると、スマホを片手に喋り続けた。
「ええ――そうですよぉ。もしかしてファンの人ですかぁ?」
「うっわマジで!?そうっす!俺、里香ちゃんのファンなんすよ!こんな所で会えるとかマジ神じゃね!?」
「ふぇ……私の事覚えててくれたのぉ?超嬉しいんですけど~♡マジ神だねぇ☆」
彼女の雰囲気が現役時代に戻った。それに気を良くしたのか、プリン頭をかきあげながら男は下品に笑っていた。反対側の通路のテーブル席で、似たような見た目の集団がクスクスと笑っていた。どうやら、奴らの幼稚なお遊びに巻き込まれたらしい。
「これから飲み行かね?こんなダセー男といるとかマジあり得ねーし」
バカにされた俺は多少イラつきながらもチャンスだと感じていた。山下は満更でもなさそうだったし、このままナンパが成功したら、その隙をついてこの店を出よう――そして、金がなくなるまでネカフェで引きこもっていよう、などと。
しかし、事態は思わぬ方向へと転がった。
「――は、うぁあ!?あっつ!」
――あの女がコーヒーをナンパ男にぶちまけたのだ。店内は静まり返り、先ほどまで余裕たっぷりだったナンパ男は熱い熱いと下手くそなダンスを踊っていた。
「――ファンだか何だか知らないけどぉ、うちの大切な人を侮辱しないでくれるぅ?写真も撮りませぇん☆私、引退して一年以上経つし――これは治療費に当ててね。バイバーイ♡」
札束を一つ床に叩きつけると、彼女はテーブルの上に置かれた物をバッグに雑に詰め込んだ。そして、周囲と同様に唖然としている俺の手を引っ張って立ち上がらせると――。
「それじゃ、行こっか。翔くん♡」
俺の腕にしがみつくように胸を押し付け、コーヒー代を支払って外へ出た。
諸々の支払いを済ませ、スーパーで数日分の食材を買い込み、タクシーに乗った後も――彼女は俺の腕にしがみついていた。
「あの……ちょっと……」
「さっきの話だけど、貴方は勘違いしてるわ」
「は……?」
「私の雇い主は貴方じゃなくて、貴方のお兄さん。だから私は貴方にクビと言われても辞めないわ」
「ああ、……そうすか」
混乱しっぱなしだった脳内に一つの答えが見えた。唐突に世話係になったのも、侮辱された俺をかばったのも、――今、俺に胸を押し付けてるのも。全部兄さんの差し金か。それなら納得だ――と思うと同時に、不思議な熱が腹の底からこみ上げてきた。
「アンタ――可哀想な人だな」
自分の夫に道具として扱われ、それでも健気に従っている。俺には理解出来ないが――愛のなせる技という訳か?だとしたら、ひどく歪だと思った。
「……可哀想なのは貴方の方でしょ」
義姉は小さく呟くと、俺の腕を強く抱きしめた。
「代替品、愛玩用、失敗作……彼からそう聞いてるわ」
低く、絞り出すような声だった。彼女が顔を歪ませているのを見て、「普通、俺は悲しむべき存在だったよな」と思い出した――。
レビューを書く