兄さんの妻 (Page 3)

 俺には7歳上の優秀な兄がいる。幼少期から神童と呼ばれ、学業でもスポーツでも必ず上位3位以内に入っていたらしい――らしいと言うのは、奴が7歳の時に交通事故に遭い、激しい運動が出来なくなったからだ。

 奴は事故のせいで数か月の間、生死の間をさまよう事になった。「もしもこの子が死んだらどうしよう」と怯えた両親は、万が一に備えて「兄さんのスペア」を作ることになったらしい――そして、それが俺だ。

 幸いなことに(不幸なことに?)奴はアスリート選手の道が絶たれただけで済み、生まれる前の俺も無事にお役御免となった――と兄さんから諭された事がある。

『どうせお前は用済みなんだ。俺のキャリアを傷つけない程度に好きにしろ』

 小学校の時、周囲から兄さんと比べられる事に悩み、不登校になりかけていた時にかけられた言葉だ。兄さんは俺を傷つけたい訳ではない。あの男は大前提として全ての人間を見下している。

 だから、アレは奴にとって――人生の中で一度あるかないかくらいの――慰めだったのだろう。

「兄さんじゃなくて、姉さんだったらよかったのにな……」

 物心ついた時からずっと考えていた。もし兄さんが女だったら、きっとここまで比べられることはなかった。

「……」

 車が止まり、運転手が気まずそうに振り返った。義姉はお札を数枚渡し、トランクに詰めた荷物を俺の部屋まで運ばせた。

 

「――くん、起きて。翔くん……」

 まどろみの中、誰かが俺を呼んでいる。目の前が明るくなって、ぬくもりが消える。――いやだ、やだ、おきたくない……俺は子どものように抵抗した。

「ほら……朝だよ、起きて。――起きないと、ちゅう、しちゃうよ?」

「――。っ……!?!?!?!???!?」

 一瞬で覚醒した。文字通り飛び起きて、ガンガン痛む頭を抱えて声の主を見た。

「あは、起きちゃった。残念だなぁ……おはよ、翔くん」

「あ――はよ、っす」

 ――義姉だった。彼女は小さく微笑むと、手際よく布団を畳み始めた。

「朝ご飯出来てるよ」

 そういえば、キッチンの方からみそ汁のいい匂いがする。テレビからは朝のニュース番組が流れており、窓の外からは日光が差し込んでいる――ここはどこだ?俺の家――だよな?

「何してるの?顔洗ってきたら」

「あ、ああ……そうだな……。――じゃなくて!アンタ、さっき……」

 起きないとチュウしちゃうよ、と言った。アレは幻聴じゃないはず。

「――もしかしてしてほしかった?バカね、冗談よ」

 言葉こそツンツンしていたが、表情は柔らかかった。いたずらっぽく微笑む彼女に当然の問いかけを投げる。

「そうじゃなくて、何でですか?キ、キスもそうだし、ご飯とか……」

「簡単な事よ。一つ目、私の役目は貴方に社会復帰させること。朝ご飯は一日の資本よ。二つ目、姉さんが欲しいって昨日言ってた。血縁関係はないけど、一応私は姉だから。三つ目、姉は弟を起こす時に隙あらばキスしようとするんでしょ?」

 ふふん、と言わんばかりに自信に満ち溢れている。ポカンとする俺に彼女は追い打ちをかけてきた。

「――いつもそういう撮影してたもの!」

 ぽく、ぽく、ぽく、ちーん。俺と義姉の間に呑気な沈黙が横たわった。

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