人魚姫は泡になるか? (Page 2)
やれやれと毅はその手を取り、一緒にフェンスを乗り越える。
プールサイドに立つと、真っ先に目に入ったのはやはり黒々とした水面だ。明るい場所で見る水と違い、眼下に広がる水の質量を毅は恐ろしいと感じる。それが本能に根ざした根源的な畏れなのか、あるいは心根の臆病さなのか自分では判然としない。
ただただ彼は暗闇の中の水を前に立ち尽くしていた。
「泳ごうっ」
にっと笑った里緒の顔面が鼻先に現れ、毅はぎょっとする。そんな彼にお構いなしに、彼女はさっさとTシャツとカーゴパンツ、そしてサンダルを脱ぎ捨て、プールに飛び込む。
どぷん、と低い音がして、殆ど水飛沫は上がらなかった。水の中に滑り込むような、その飛び込みに毅は呆然とする。
「早く来なよ」
またしても急かされるが、毅は無視して水着に着替え、軽く準備体操をして、それからやっと水に足を入れた。
「お前、真っ裸で泳ぐの嫌じゃないの?」
「はあ? 水着着てるよ」
すぅっと葉っぱが水面を流れるように里緒は毅の前に泳いできた。
暗いのでよく分からなかったが、確かに彼女が言う通り水着を着ている。黒い競泳水着だったので気付かなかったのだ。ぴったりと体に沿った水着は、里緒の体の凹凸をはっきりと毅の網膜に焼き付ける。
目を反らして毅はプールと、それ以外を隔てるフェンスに無為に目をやった。
「家から水着着てきたのかよ。小学生かよ」
「いーじゃん、別に。アタシはすぐ泳ぎたかったの」
「マジで小学生じゃん」
「うるせー」
里緒は手で水鉄砲を作って毅の顔面に向かって噴射する。それは見事に命中し、彼の鼻先から水が滴った。
「ほら、これでいいじゃん」
水に濡れた毅を見てけらけらと里緒が笑う。
大げさに溜息をつき、毅はそっとプールに体を沈める。暗い水面は簡単に彼の体を呑み込み、冷たい感触が触感の殆どを占有した。
「競争する?」
「いやだよ、僕がお前に勝てるわけないじゃん」
「もやしヤローめ」
「偏差値上げてから口開けよ、脳筋」
「あ、そうだ」
けろっとした顔で里緒は話題を強引に方向転換する。
「毅って進路決まってるの?」
「当り前だろ」
訊かれた毅は呆れ顔で答える。
「この時期に進路決まってないってどういうことだよ。もう夏だろ」
「まだ夏なのにさぁ、みんな進路、進路って勉強ばっかだよ」
「受験生なんだから当り前だろ」
「えぇー、じゃあ、毅はどうするの?」
問われた毅は他県にある大学の名前を告げる。
「アタシでも行けそうかな、そこ」
「分かる訳ないだろ。里緒の学力知らないんだから」
「じゃあさ、勉強教えて」
「塾にでも行けよ」
「毅は行ってるの?」
「僕は行ってない。里緒だったら水泳で推薦取れるんじゃないの?」
「あー……、それ無理。大会出る前に部活辞めたし」
「なんで」
「監督がウザかった」
「怪我とかじゃなくて、そんな理由かよ」
「そんな理由だよ」
ふいっと里緒は顔ごと毅の視線から逃げるように逸らしてしまう。その仕草は都合が悪くなった時の里緒の癖だと毅は知っている。
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