世界一下手くそなプロポーズ (Page 6)
何も言えなかった安吾は肩に乗っている緋沙子の顔を盗み見る。涙で濡れた顔があった。すうすうと彼女の寝息が耳朶をくすぐる。少しは落ち着いたらしい。
深い溜息を吐き、安吾は緋沙子を背負い直した。脱力した人間は背負い難い。だが、本当に背負い難い理由はそれだけではなかった。
丘をとぼとぼ登り、家に着く頃には安吾はすっかり疲弊していた。力を振り絞って緋沙子をベッドに寝かせ、自分も寝床に潜り込む。もっとも彼の寝床は寝袋で、今日ほど柔らかい布団が恋しいことはない。
疲れ果て、泥のように眠っていた安吾は夜半に目覚めた。何のことはない。尿意が彼の眠りを覚ましたのだ。
「うおっ」
寝袋から這い出した安吾は思わず声を上げる。暗い室内に緋沙子が立ち尽くしていたのだ。何をするでもなく、ぼうっと幽鬼の如き有り様で、じっと彼を見つめている。
「おい、おいおい。何やってんだ。寝床に戻れ」
なにも彼女は答えない。
「その面は、まだ具合が悪いんだろ」
肩を掴み、強引に寝床へ戻そうとした安吾に、ぽつりと緋沙子は言う。
「絵が描きたい」
「あん? 何言ってんだ、寝ろ」
なおも渋る緋沙子に彼は条件を突き付けるように言い放つ。
「体調を戻せ。じゃないとまともに描けやしないぞ」
言い聞かせて強引に緋沙子をベッドに押し込む。しかし、この調子ではベッドを抜け出してアトリエに行きかねない。仕方なく安吾は彼女の部屋に寝袋を持ち込んで一緒に寝ることにした。監視しておけば無茶はしないだろう。
俺は親じゃないんだぞ、と安吾は浅い眠りの中で悪態をつきつつ夜を明かした。
一夜明け、寝不足の安吾はむっつり不機嫌に朝食を作る。そうしていると欠伸をしながら緋沙子が台所に姿を現した。けろりとした顔をしており、復調したらしいことが察せられる。
「薄ら寒い格好してんなよ、またぶっ倒れるぞ。上着ぐらい羽織れ」
安吾は自分の着ていた上着を緋沙子の肩に引っ掛けた。また体調を崩されては堪らない。
上着の前をかき寄せ、緋沙子は笑いながら椅子に座る。
「なあ、安吾」
笑いながら緋沙子が呼ぶ。
「なんだよ」
「私はね、君に感謝しているんだ」
「そりゃあどうも。感謝はするだけじゃなくて行動で示してくれ」
おどけて彼は言うが、緋沙子は笑みを崩さない。
「昨日のことだけじゃない、私が絵を描けているのは君のおかげなんだよ」
「藪から棒に、何だよ」
「君は私に言ったろう? 不自由そうに絵を描くな」
「……なんのこった」
安吾はとぼけた。
かつて自分の絵を酷評した緋沙子に対する皮肉だ。忘れもしない。
「私にとって絵は逃避だったのさ」
「唐突になんの告白が始まるんだ?」
また安吾はおどける。話の流れが読めない。だが、まずい流れであることはなんとなく察した。
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