世界一下手くそなプロポーズ (Page 4)

「どうかした?」

 彼と姉のやり取りなど知らない緋沙子だけが台所に舞い戻ってきた。

「なんでもねぇ」

「私はアトリエに戻るよ。君はどうする?」

「寝床を作らないとなんねぇからな」

「私と一緒に寝たらいいじゃないか」

「冗談にしちゃつまんねぇな」

 あはは、と笑いながら緋沙子はアトリエへ姿を消す。
 後ろ姿を見送った安吾は、暗くなるまで掃除をして、夕食の準備をした。いつまでたってもアトリエから出てこない緋沙子をせっついて食事をさせ、別々の寝床で眠る。
 そんなことを幾日が続けていた、ある朝。
 アトリエから明かりが零れていることに気付いた安吾は、嫌な予感がした。
 そっとアトリエの扉を開けて中を覗くと、キャンバスに向かっている緋沙子がいる。顔は無表情なのに、殺気すら感じられる集中力で彼女は手を動かしていた。顔色はいつもにも増して青白く、命を削って描いているのだと傍から見ても分かる。
 止めるべきか、微かに逡巡した。だが、安吾は眉間に皴を寄せ、あえて乱暴に緋沙子の肩を揺する。

「緋沙子、お前いつからやってんだ」

 緋沙子は最後に彼が見た服装、つまり寝間着姿だったのだ。あまり上等とはいえない薄っぺらい生地のそれには、絵具が飛び、斑になっている。

「……安吾……」

 鬼気迫る雰囲気が失せ、寝起きのようなぼんやりした視線を彼女は安吾に向ける。

「命、張ってまで描くもんじゃねぇだろ」

「うん。そうかもしれない。だけど、どうしても描きたかった」

「それで、寝床から抜け出したってのか」

「うん」

 子どものようにこっくりと頷き、緋沙子は視線を安吾からキャンバスへと戻した。その手がパレットを再び握ろうとするのを安吾は許さない。

「描き終わる前にぶっ倒れるぞ。風呂入って、飯食って、寝てからにしろ」

 もたもたと彼女は迷っていたが、安吾が強引に立ち上がらせて風呂に連行した。動きたがらない緋沙子を裸に剝いて、浴室に放り込む。そして、着替え一式を取りに彼女の部屋へ行く。

「まったく……、俺はなにやってんだ」

 ぶつくさと文句を言いながら、風呂場へ取って返すとシャワーが流れる音がしている。

「着替え置いてくからな。ちゃんと頭も拭けよ」

「……」

 返事がない。

「おい、緋沙子」

 おかしい。シャワーの音が一定過ぎる。体に当たって流れる音ではなく、無為に床に落ちるだけの音の連なりだ。
 不安に背中を叩かれ、安吾は磨り硝子越しに浴室を覗く。まるで動いている様子がない。彼は引っ叩かれるのを覚悟で浴室の扉を開ける。そこには、ぐったりした様子で座り込んだ緋沙子がいた。

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