体験談 (Page 3)
――かたり。
小さな物音を聞いた気がして、Aさんは少しばかり目を覚ます。だが、完全に眠気を手放せず、顔の上まで布団を引っ張り上げた。
引っ張り上げた布団からは汗やら何やらの臭いがする。たまに干していたが、それも働き始めたばかりの話で、いっぱしの大人としてしゃんとしなければ、などと考えていた時分のことだ。それが今や朝から酒をやって、万年床で二度寝をしている。
自分の自堕落さに苦笑しつつも、平日はちゃんと働いているから良いではないかと正当化して目を閉じた。
うつらうつらと起きているのか、それとも寝ているのか、というような時間が流れる。
泡が弾けるような感じがして、少しばかり眠気が遠のく。
ふと、鼻先に甘い匂いが届いた。
生温い乳の匂いだ。
布団から出るのが億劫で、視線だけで部屋の中を見える範囲で探る。何もない。当然だ。
そこで、Aさんも思い当たった。
これは赤ん坊の匂いだ、と。母乳を擦っている時期の首も座っていない赤ん坊独特の甘ったるい匂い。
そこまで考えを巡らせたところで、Aさんは布団の中に亀のように頭を引っ込める。きっとアパートの住人がめでたくも子宝に恵まれたのだ。もしかしたら夕方ぐらいには、祝いの餅ぐらいにはありつけるかもしれない。大家は験を担ぐ人だから。
うとうと、とまたAさんは夢見心地に戻っていく。
そんな彼の肩に、布団越しにそっと誰かの手が触れた。
えっ、と思って思わずAさんが布団を跳ね除けると、驚いた顔をした女が枕元に座っている。一体どこから、と玄関を見るが当然閉まっている。
もう一度、女へ目を戻す。
いない。
枕元に座っていたはずの女は消え、何もない空間を視線が通過して壁にぶつかる。
すっと背筋が冷え、Aさんは慌ててズボンと上着を身に着けて、アパートを出た。
アパートの廊下は静かで、赤ん坊の泣き声などない。それに、例の甘ったるい匂いもしなかった。
その日は外で飲み、日付が変わる頃に帰宅したが、やはり女は現れない。夢か、あるいは何か光の加減で人の姿にでも見えたのだとAさんは自分を納得させた。
やがて女のことも、乳の匂いがしたことも日々の忙しさに揉まれて、Aさんは次第に忘れていったのである。
再び、女が乳の匂いを纏って現れたのは、やはり昼間のことであった。
若さに任せて夜遊びをしていたAさんは、昼頃に起き出して遅い昼食を食べていた時のことである。
ふんわりと鼻先に甘い乳の匂いが漂ってきた。
食べかけていたうどんの切れ端が箸からつるりと逃げて、薄い汁に落ちて小さな飛沫を卓袱台の上へ跳ね飛ばす。鰹出汁の匂いが一瞬だけ甘い匂いを押し返すが、すぐにAさんの鼻腔は元通りに甘い匂いで一杯になった。
艶めかしい色合いの繊手がAさんの首へ回される。絞め殺される。そうAさんは咄嗟に思ったが、手は締め付けるどころか指先を蛇の舌先のように蠢かして、彼の喉仏の辺りをくすぐった。
震えるような快感が喉元を通り、下腹へと落ちて行ったとAさんはいう。
それなりに女遊びもしていた、とAさんは言うが、それでも味わったことのない種類の快感だったのだと。
濡れました。
不思議だよみごたえもありましたが
同時に同じ立場の女性として共感もできるし
なによりリアルな性交のシーンが男性目線でしか画かれていないところもとても気に入りました。
なお さん 2023年6月26日