夜よ、どうか明けないで (Page 6)

「いてっ」

「あた」

 お互いのかけている眼鏡がぶつかり、ささやかな音が鳴った。ただそれだけのことだが、二人は弾かれたように仰け反ってしまう。

 その結果、良太郎は壁に頭をぶつけ、小槙は尻もちをついた。

 余りにも無様な状態に良太郎は笑いだす。つられて小槙も笑い声をあげた。

 心の底から愉快な気持ちになり、二人は抱き合い、縺れるように地面に寝転び、夜空を見上げて笑い続ける。

 しばらくして笑いの発作が収まった頃に小槙がぽつりと零した。

「初めてちゃんとしたキスしようとしたのに」

 ちょっと拗ねた彼女の声音に良太郎はまた小さく笑い、額にキスをした。

「ねえ、もう一回」

 ねだられ、今度こそ良太郎は小槙と慎重に口付けた。

 体温が唇を通して伝わってくる。小槙が確かに生きているのだと、彼女を抱いている時と同じように実感できた。

 胸に開いた穴を風が通り過ぎるような、そんな空虚な気持ちで良太郎はずっと生きている。そんな彼にとって小槙が生きていると実感できた時だけは、自分が生きていると思える瞬間だった。自分にも人並みな気持ちがあるのだと安心できる。

 他に誰もいなかったらいい。

 それは良太郎の気持でもあった。

 そうすれば誰かに自分の在り方を決められ、押し固められて息もできないような心地にならなくていい。求められる顔を演じ続け、自分が何者なのか見当もつかなくて途方に暮れることもないはずだ。

「……こまちゃん……」

 いつ間にかしなくなっていた幼い頃の呼び方で良太郎は呼びかけていた。

 地面に寝転がって、廃墟の骨組みに切り取られた青白い月を見上げ、彼は溜息を吐くように言う。

「世界中に二人だけだったら、よかったのにね」

「……うん」

 夜の底に深く深く沈み、二人は静かにお互いのことだけを感じた。

 二人寄り添って、誰にも傷付けられず、誰も傷付けずにいられたら。

 それだけでいい。

 他には何も望まない。

 良太郎と小槙は互いの手を離すまいと強く握った。

 光溢れる日常という世界は、そんなことすら許してくれない。

 だから。

 決して叶わないと知りながら二人は祈らずにいられなかった。

  ――夜よ、どうか明けないで。

(了)

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