雪女に殺されたい
死んでしまおうと思い、北の海を目指した男。その男の前に現れたのは、恐ろしいほどに美しい雪女……?手を伸ばしてみると、意外にも彼女は男のことを拒まない。どこに触れても敏感に反応する彼女に、男はどんどんのめり込み、愛おしさを募らせてゆく……。
大学を出て、新卒で入った会社はいわゆるブラック企業だった。
定時になるとタイムカードを切らされ、残業代は当然支払われない。朝6時に出社は当たり前。理不尽な上司、日を追うごとに減っていく同期、達成できるわけがないノルマ。ノルマを達成できなかったペナルティとして引かれる給料。
辞めたいけれど、新卒カードを無駄にしてしまったことを認めたくない。まだ入社して一年も経っていないのに退職して、そんな俺を受け入れてくれるようなまともな会社があるわけない。そう思って何とか必死に出勤し続けてきたが、とうとう会社に行けなくなってしまった。
今朝目覚まし時計の音で目が覚めて、ベッドから起き上がることができなかった。背中がシーツに貼り付いてしまったようだった。
天井のざらざらとした白い壁紙を見つめていた。何も考えられず、ただ呼吸をしているだけだった。やがて何度も何度もやかましく携帯電話から着信音が鳴り響いたが、画面を確認することさえできなかった。
無断欠勤だ。明日こそは出勤しなければならない。だが、今日のことを謝らなければならない。どれだけ罵倒されるのだろう。考えているうちに吐き気がこみ上げてきた。
そのとき、ふと気付いた。
死ねばいいんだ。
そうだ、どうしてこんな簡単なことに今まで気が付けなかったのだろう。死んでしまえば出社なんてしなくて済むし、これから四十年五十年働き続けることを考えて憂鬱になることもない。
そうと決まれば話は早い。未だ鳴り続けている携帯電話の電源を切ると、パソコンを立ち上げ、今夜の宿を調べ始めた。これで楽になれると思うと、心が軽くなった。
「お客さん、旅行ですか?こんな何もない田舎の宿ですが」
「そんなところです。海を見ようと思って」
部屋に通されると、女将と思われる女性がお茶を淹れてくれた。湯呑みに注がれた熱い茶には茶柱が立っていて、お客さん運がいいですね、と女将は笑っていた。明日上手く死ねるということかなと思いながら、俺は愛想笑いを返す。
札幌から電車を乗り継いでたどり着いたのは、海沿いの町だった。駅を降りてから二十分ほどかけて徒歩でここまでやってきたが、その間ですれ違った人は三人しかいなかった。高校を卒業した若者のほとんどが進学や就職のため札幌へと出てしまい、年寄りばかりが取り残されているような町だ。
観光名所があるわけでもなく、さらに雪の降る季節ともなると、大抵の宿が閑散としているようだったが、その中でも特になるべく従業員も利用客も少なそうで、海から近いところを選んだ。
海が近いところを選んだのは、死ぬ方法を入水自殺に決めたからだ。おそらくかなり苦しいだろうが、上手く行けば死体を誰からも見られないで済むかもしれないと期待したのだった。
最期の夕食は少し豪華な家庭料理といった感じだった。この寂れた宿でこんなものが食べれるとは思わなかった。嬉しい誤算である。出汁や薬味が利いた丁寧に調理された食べものはどれも美味しく、明日の朝食を食べられないことが少し残念だった。あまりに美味かったので、女将に礼をわざわざ言ったほどだ。
身元がわかるようなものは何一つ持ってきていなかった。鞄に詰めてきたのはわずかな着替えだけで、遺書も書いてきていない。明日死ぬのだと思うとやはり緊張しているのか、それとも楽になれる喜びのせいなのか、なんだかそわそわしてしまい、布団に入ってからもなかなか寝付けなかった。
とてもよかったです。次の作品も楽しみです。
匿名 さん 2020年11月7日