ある事務職の甘い風景
出世街道から外れた田中の居場所は、冴えない雑用係だ。そこに社内でも一目置かれる「できるOL」若川仁美が配属されて1年目が経った記念日、常に一線を引いて距離を置く田中に仁美がキスをした。それは、彼女が押さえ続けてきた感謝と牝の劣情が溢れてしまった瞬間だ。
「君の役職は、いったいなんのためにあるんだ?」
上司である古坂が、俺を見下すように睨んできた。
俺はいつものように神妙な顔をして、頭を下げる。
「すみません。私の検討漏れです。やり直し――」
「部下にやらせろと言ってるだろ。なんなら、私が若川くんに指示するけど、それでは君の存在意義がないよね?」
古坂はため息混じりに言い、俺の後ろをちらりと見る。
彼の目はオフィスの隅にある俺のデスクへ向けられていた。
そこは俺の唯一の居場所で、俺だけの城だ。
ただし一年前から、隣に女性が一人加わっている。
淡い秋色のスーツを着こなしている彼女――若川仁美は、入社三年めの女性で、ちょうど一年前に俺の部下になった。
切れ長の大きめの瞳とスッと筋の通った鼻、薄い唇を引き結んでテキパキと仕事をこなすスレンダーな姿は、控えめに言ってもできるOLだ。
俺の下なんかにいるには優秀すぎる人材だが、俺が社長に直訴して配属してもらった。
「ったく、なんで君の尻拭いを若川くんがやってるんだか……」
「では、やり直してきます。ただし、相応の工数がかかりますので、提出は明日以降になります」
俺は古坂の愚痴を遮るように言うと、頭を下げてその場を離れた。
俺は出世街道から早々に離脱し、古坂の部署の雑用を請け負うことで、この会社に居場所を作った。
だから彼にとっての俺は、「養ってやってる使えない奴」なわけだ。
そんなところに元部下の若川さんがいることが、気に食わないのだろう。
でも彼女は、うちに来なければ壊れてしまっていた。
「田中さん、どうでした?」
俺が自席へ戻ると、若川さんの不安げな声が尋ねてきた。
隣で俺の様子を窺うような視線をくれる彼女に、笑顔を向ける。
「はは、ダメだったねえ。まあ、気分で仕事してる人だから仕方ないよ。若い人には、我慢できないだろうけど、適当にあしらってればいい感じに収まる」
「いや、田中さんもまだ三十代じゃないですか。……それにそんなことしてたら、田中さんが私の上司じゃなくなるかもしれないですよ」
「ああ、そっかあ。でもそれなら若川さんが偉くなって、俺を使ってくれれば嬉しいなあ」
「いやですよ。なんで、師匠を顎で使わなきゃいけないんです?」
「言いかた! 『顎で使え』なんて言ってないし……」
「あら、そうでしたっけ? まあ、詳細を指示しなくても進めてくれる部下って点は、いいですけどね」
「ううむ……。褒められてるのか、けなされてるのか?」
俺はわざとらしく悩むふりをして、自分のノートパソコンに向き直った。
彼女との掛け合いは気分転換になってとても楽しい。
若川さんも、さっきまでの不安げな影がなくなって清々しい表情で仕事を再開している。
気を遣ってくれてるんだろうけど、楽しそうに仕事をしているのを見るとホッとする。
彼女が俺の下に異動してきて、今日で丸一年だ。
お祝いしたいけど、やんわり断られるだけだろう。
「……で、やり直しですか?」
「ああ、うん。古坂さんは君に作って欲しいんだって」
「いやいや。田中さんに手伝ってもらったとはいえ、その資料は私が作ったんですけど?」
「うん、そうだね。でもさ、ちょっと彼の指示と違うグラフが混ざってて、それがまあ格好の標的になってね」
「えっ? そのグラフは私が……」
「だよねえ。あった方が説得力は増すから、俺はいいと思うんだけどね。提案資料は、お客さんの好みもあるから。まあ、今日はそんな気分じゃなかったくらいなんだろうけど」
「……すみません。私が勝手なこと」
「ははは。効果的なグラフだから大丈夫。再提出のときに『いい感じ』に載せとくつもりだし。それよりも他の仕事もあるから、こんなのササッとやっちゃおうか。今日は、残業なんかしたくないでしょ?」
「……。『いい感じ』って何ですか、『いい感じ』って? 適当なんだから……もう」
「適当って……。俺、一応上司だからね」
「じゃあ、えと、『ふわっとしてる』?」
若川さんは顎に指を当てて、ちょこんと小首を傾げた。
その姿が可愛すぎて、俺は言葉を失う。
一年前に『感情のない鉄の女』と揶揄されていたのが、嘘みたいだ。
「……もう、それでいいよ。ふわっとしてるとこは、若川さんが直してね」
「はいはい、そのつもりです。私が作ったんですから」
「うん。だから、すごく見やすいんだよね」
「っ! ……ありがとうございます。やっぱり、た……」
若川さんは俯いて、ぼそぼそと何か呟いた。
ちょっと褒めすぎて、引いちゃったかな?
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